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防災歳時記 5月8日 牛にひかれて善光寺参り

善光寺はあこがれの観光地

江戸時代 善光寺参りはお伊勢参りと並ぶ、人々のあこがれの旅行だった

 蓮如賞も受賞した田辺聖子さんの小説「姥ざかり花の旅笠」は知的でエネルギッシュな熟女4人の旅の話だ。

 

 舞台は江戸時代。筑前の商家の内儀だった小田宅子(いえこ)の「東路日記」(あずまじのにっき)が下敷きになっている。

 

 53歳になった小田宅子は、1841年(天保12年)、歌の女友達3人と連れ立って、荷物持ちの男3人を従え、お伊勢参り、善光寺参り、果ては日光、江戸と豪快で知的な冒険とグルメとショッピングの旅を繰り広げる。170年前とは思えない、現代的な熟女旅行だ。

 

 はてさて、その時代小田宅子がはるばる九州から赴いたように、善光寺参りはお伊勢参りと並んで「一生に一度は行ってみたい」、人々のあこがれの旅行だった。

 

 江戸末期には、善光寺はなんと年間20万人の参詣客で賑わったという。

 

 

 しかし小田宅子が参詣した6年後、1847年(弘化4年)の今日5月8日に善光寺はM7.4(推定)の大地震に見舞われる。

 

 善光寺平を震源とする逆断層型の直下地震。今も歴史にその名を残す「善光寺地震」だ。

土葬水葬火葬までする

 ゴールデンウィークが旅行シーズンなのと同じく、気候の良いこの時期は江戸時代も観光旅行シーズンだったらしい。

 

 善光寺地震での犠牲者は合計8600人あまり。観光シーズンで善光寺には7〜8000人の参詣客が訪れていたことから、その1割強の1千数百人が犠牲になった。

 

 地震による建物の倒壊で犠牲者が出た後は、火災による犠牲者が発生し、さらに地震による斜面の崩落で犀川などがせき止められ、いくつもの村が湖底に沈み、浸水による犠牲者も続出した。

 

 巷にはこんな狂歌まで流行した。

 

「死にたくば信濃へござれ善光寺 土葬水葬火葬までする」

 

 江戸時代の粋人の実に悪趣味な一面がしのばれるが、そのさながら地獄絵図のような災害の様子は、災害絵図の代表作「信州地震大絵図」に克明に描かれている。

 

 そして、この絵図を描かせたのは、他でもない江戸時代後期の名君として名高い地元 松代藩の藩主 真田幸貫だった。

善光寺に思いを馳せると、現代の光景と二重写しに思えてくる

名君 真田幸貫の震災復興対策

 真田幸貫は「寛政の改革」で有名な松平定信の次男で、真田家の養子となるが、養子になるにあたっては浪人姿でこっそり松代藩を見聞して回ったという伝説もある、いわば「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」みたいな人物だ。

 

 「信州地震大絵図」も、幕府に対し「拝借金」(幕府による無利子の財政支援)を受けるべく被災状況を説明するための秀逸な「プレゼン資料」だったのだ。

 

 松代藩領内での被災者対応は他藩と一線を画していた。

 

震災翌日には、近隣から「おむすび」が支給され、1週間後には避難所が開設。2週間目からは遺体収容作業が開始されたらしい。

 

 藩自体も、藩の備蓄米による「お救い小屋」での緊急食料供給、苗を失った農家に対するもみ米や苗の提供、そしてせき止められた犀川の土木工事を公共事業として行なうことで、地元民への手当を支給する景気浮揚策まで、矢継ぎ早に政策を展開している。

 

 名君 真田幸貫は震災対処でも、その政治手腕をいかんなく発揮するが、それほどの名君をしても善光寺地震による藩財政へのインパクトはいかんともし難く、事実上の「財政破綻」は震災以降 幕末まで続くことになる。

 

 善光寺に思いを馳せると、小田宅子の「熟女旅行」にせよ、真田幸貫の震災対処にせよ、限りなく現代の光景と二重写しに思えてくる。

 

 それは、人の世は、思うほどに進歩していない証しなのか?

 

 それとも傑出した名君などおらずとも「それ相応の震災対応はできる」ほどには進歩した、と見るべきなのか?

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