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防災歳時記5月22日 由比ケ浜の津波と御成敗式目

1241年相模湾の津波は鎌倉・由比ヶ浜を襲い、拝殿を流し去った(撮影: akira yamada)

 津波被害というと、今や東日本大震災の沿岸被災地、そして高知、和歌山、静岡などの南海トラフ巨大地震の被災想定地域が思い出されるが、相模湾の津波被害も見過ごしにできない。

 

 歴史上、相模湾の津波被害の記述が最初に現れるのは、今から772年前の1241年(仁治2年)の今日5月22日。『吾妻鏡』によると「戌の刻(午後8時〜10時)大地震。南風。由比裏の大鳥居内拝殿潮に引かれて流失す。着岸の船十余艘破損す。」

 

 その時代、鎌倉の由比ヶ浜には、拝殿があったらしく津波で流失した様子が記載されている。

 

 時は鎌倉時代、執権北条泰時の晩年だった。この時、鎌倉の大仏は建造中だったが、この津波から257年後、1498年(明応7年)の明応地震では海岸線から800メートル離れた場所に位置する大仏まで津波が遡上し、大仏殿が倒壊した。

 

 鎌倉の大仏は元々、今のように「むき出し」で鎮座していたのではなく、「大仏殿」に収められていたらしい。

 

 仁治2年に由比ヶ浜を襲って以来、歴史に残る相模湾の大津波は、関東大震災まで合計9回。

 

 2011年12月。神奈川県は東日本大震災を受けて、これまでの津波被害想定を見直し、鎌倉に高さ14メートル超の津波が襲う可能性を想定した津波ハザードマップを公開した。

 奈良の大仏が建立された時代は、地震など打ち続く天災の平癒をひたすらに仏に願っていたらしい。

(その経緯は、連載『ハザード今昔物語』第七巻 大仏様、助けて! 悲劇の為政者・聖武天皇 に詳しい)

 

 しかし、鎌倉大仏が建立される頃には、一方で仏に国家鎮護を祈念するとともに、より近代的な方法で社会問題を解決するやり方も生まれている。

 

 時の執権 北条泰時が制定した「御成敗式目」は、「律令制に変わる初めての武家法」、などと日本史の授業で教わったが、そこにはすでに「近代法への萌芽」が感じられる。

 

「裁判で権力ある者が勝ち、権力なき者が負けるといった不公平をなくし、公正な裁判をする基準である」

 

 北条泰時は「御成敗式目」を作るに当たっての手紙に、そんな意味の制定主旨をしたためている。

 

 実際、御成敗式目の内容をみると、

 

「証書がなくても20年実効支配している土地は元の領主に返す必要がない。逆に実効支配していない者は証書があっても所有権が認められない」

 

と言った内容の記述などがある。

 

 これは現代の民法にある「借金を一定期間内に請求しないと帳消しになる」、と同じ「消滅時効」の考え方だ。 

 

 「消滅時効」の根底には「権利の上に眠る者は保護されない」と言う、極めて現代的な法概念が横たわっている。時の権力者 北条泰時は、現在で言えば最高裁判事か優秀な法学者のような思考回路を持っていたようだ。

 

 北条泰時は、裁判でさっさと自らの非を認めた地頭に対し、「敗訴ながらあっぱれ。自ら非を認めるとは立派で正直な人だ」と誉めたとか。心底「裁判官」な人だ。

 

 御成敗式目が作られた背景には、地頭・御家人の台頭と鎌倉時代最悪の「寛喜の飢饉(1230〜1231年)」があった。

 

 天災と構造変化による社会不安を「公正な法秩序」で解決する。それは奈良大仏の時代とは異なる、新たな社会への進歩を感じさせる。

 

 北条泰時の没後約30年後。奇しくも日本は「元寇」という予想だにしない難局に直面する「新たな時代」を迎えることになる。

鎌倉大仏(長谷の大仏)は、明応地震の津波被害まで「大仏殿」に収められていた(撮影: naitokz)

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