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防災歳時記6月9日モンゴル・高麗軍による弘安の役(第二次元寇)

竹崎季長/『蒙古襲来絵詞』前巻・絵7・第23紙より

 今から732年前、鎌倉時代1281年の今日6月9日に弘安の役こと2度目の元寇が始まった。モンゴル帝国のフビライと、その配下にあった高麗軍(朝鮮半島の王朝)が、日本の対馬・壱岐へと侵攻してきたのである。

 

 一説に約15万とも言われる高麗・モンゴル軍。これを迎え撃ったのは、時の執権北条時宗が率いる約6万。ハタから見れば、鎌倉幕府に勝ち目ナシである。なにせ相手は、中国・朝鮮半島だけでなく、中東から欧州へと勢力を広げる世界最大の蒙古帝国であった。

 

 しかし、奇跡は2度起きた。1274年文永の役(第一次元寇)に続いて、またもや大嵐が玄界灘を襲い、鎌倉幕府が勝利したのである。

 

 このときの合戦の様子が描かれているのが『蒙古襲来絵詞』であり、歴史の教科書などでは特に竹崎季長の一枚が有名だろう。馬にまたがる騎馬武者が、弓を構える数人の蒙古軍と対峙している勇姿である。

 

 そして竹崎季長の図が非常に印象的だからであろうか。やはり歴史の教科書を見ると『当時の鎌倉武士は一騎討ちが基本。これに対しモンゴルの集団戦法に苦戦をした』というような記述が多い。

 

 刀一本で正々堂々戦う鎌倉武士に対し、遠くから弓を放つ姑息なモンゴル軍。さも、そんな風に言いたげだが、実はこの教科書の記述は、かなり疑わしい。

 ある歴史研究家が鎌倉時代から南北朝時代までの合戦負傷者576名のケガの原因を調べたところ、最も多いのが弓矢によるもので、その率は約86.1%。それ以前からも日本では弓による「飛び道具」が主な武器で、なにも元寇が初めてだったワケじゃないという。

 

 考えてみれば、当然のことである。刀や槍で敵に突撃しようと思ったら、相手に近づくまでに弓矢で狙われ、自軍の被害が増えるだけ。それならば「敵よりも射程距離の長い弓」を開発し、先にダメージを与えて、戦いを有利に運べばいい。

 

 そうしたことを考慮してか、鎌倉時代の武将たちが付けていた防具の甲冑も、自身が弓矢を構えたときに無防備とならぬよう、両肩の大袖が盾の役目を果たしたそうだ。常に弓矢と弓矢、つまり遠距離での戦いを想定していた証拠であろう。

 

 自分が傷つかずに相手を殺傷する。武器とは、もともとそういう性質のモノであるから、弓矢は間もなく鉄砲へ取って代わられ、その鉄砲もすぐに大砲、ミサイルへと移り変わっていった。

 

 ミサイルの次は…と、この先のループを考えると末恐ろしい。進みすぎた軍事テクノロジーから我々を守ってくれるのが『神風』であったら、それはあまりに心もとない。

 

 

 

※参考文献『戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆(平凡社新書) 』(著・鈴木眞哉)

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