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防災歳時記8月1日 菅原道真 優秀すぎる官僚の悲哀

菅原道真(845 - 903)

 今から1168年前、845年(承和12年)の今日8月1日、中級貴族 菅原氏に一人の男の子が生まれる。

 

 男の子の名前は、菅原道真。

 

 そう、誰でもご存知の「学問の神様」の「菅公」だ。

 

 だが、その人生は「学者」というよりも、現代でいうところの「優秀なキャリア官僚の一生」に似ている。

 

 菅原道真は幼少より詩歌の才に恵まれ、18歳の時に「文章生(もんじょうせい)」になる。これは現代で言えば、東大に合格すると同時に国家公務員I種試験に受かったようなものか。

 

 32歳で「文章博士」つまり「歴史学部長」に就任。少々出世は早いが、先祖代々「学部長」みたいな家柄だからそんなに不自然でもない。

 

 この後、41歳で「讃岐守」、つまり「香川県知事」に任命される。知事はともかく「県警本部長」は現代でもキャリア官僚がなるわけだから、これもさして不思議はない。

 

 しかし47歳の時に、時の宇多天皇の信任を受け、「参議」、つまり現代でいえば「中央省庁の事務次官クラス」に抜擢される。

 

 この時の官職は従四位下。家柄にしてはなかなかの出世だ。

 

 藤原氏の勢力拡大を快く思わない宇多天皇は、あえて藤原氏以外の家柄からの人材を抜擢したと言われているが、ここからの菅原道真は藤原氏にとって次第に「けむたい存在」になっていく。

 2年後、49歳の時に「遣唐大使」つまり現代で言えば「駐米大使」に任命されるが、「唐は政権末期であり、得られるものがない」などとして遣唐使を自ら廃止する。

 

 最新の世界情勢にも通暁した優秀な能吏だ。

 

 54歳の時、ついに右大臣に昇進する。現代に適当な官職はないが、総理大臣の次に偉い人とでも言えばいいか。

 

 三善清行から「分を知るっていうのも大事だぞ。引退したらどうだ?」と諭されるが、道真は聞かなかった。

 

 そして遂に56歳の時、従二位に叙せられるが、「皇位の簒奪を謀った」と藤原時平に讒言され、遠く太宰府に左遷させられる。

 

 時の醍醐天皇は、左遷された道真に会おうともしなかった。

 

 

「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

 

 

 誰もが知るこの和歌。

 

 道真は都への焦がれるような想いを歌うも、帰京の望みはかなわず太宰府で58年の人生に幕を降ろす。

菅原道真が太宰府に左遷されたのは56歳の時だった

 道真の死から27年後、道真を見捨てた醍醐天皇が住まう清涼殿を落雷が直撃する。

 

 みんな「菅公のたたり」だと恐れた。

 

 みんな道真が怖かったのだ。

 

 藤原氏だけでなく、「ほどほどに」と安閑な生活を望んでいた他の貴族たちも、その明晰な頭脳で一気に中央集権化を進め、行政に辣腕を奮う道真を雷神と思うほどに怖かったのだ。

 

 人々の畏れにより、死から87年後、道真は人臣としての最高位「正一位太政大臣」に叙せられる。

 

 官僚としての出世はこれで頂点を極める。

死して雷神となった菅原道真は正一位太政大臣に叙せられた(繪本菅原實記より)

 太宰府は京都より気候も温暖でおだやかだ。

 

 定年退官後にのんびり暮らすには悪くない土地柄。

 

 それでも京に帰りたかった道真は、それほどまでに「権力」に執着していたのか?

 

 いや周囲に恐れられるほどに明晰な秀才だったがゆえに、本当は存外「寂しがりや」だっただけなのかも知れない。

 

 太宰府には誰も友達がいないことが、ただ寂しかっただけ……。

「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」(撮影: cotaro70s)

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