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防災歳時記9月7日 浪人によるクーデター発覚 由井正雪の乱

11才の徳川家綱が4代将軍になったのを見計らってクーデター計画が実行されようとしていた

 今から362年前、1651年の今日9月7日は、江戸時代に唯一とも言える浪人のクーデター計画が発覚した日である。

 

 首謀者は、軍学者として名を知られた由井正雪ほか数名。また、彼らの目的に賛同し、計画に乗った浪人たちは一説によると3000~5000人と言われている。

 

 1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は幕末の混乱期を迎えるまで約250年もの間、鎖国によって平和な国内文化が育ったイメージがあるが、こうした浪人たちが集まり、本気で国家転覆を企てたことがあったのだ。

 

 そもそも由井正雪がクーデター計画をたてた動機は、他ならぬ江戸幕府のせいであった。

 

 徳川家康から秀忠、家光と続くこの三代は、後に武断政治(武力で国を治める)と評されるほど強い姿勢で他家にあたり、多くの大名家を取り潰したり、領地を奪い取った。

 

 そのため全国各地に浪人が溢れ、生活苦にあえぐ彼らの不満が高まり、その状況を憂慮していた由井正雪が立ち上がったのである。

 

 クーデターは、江戸、京都、大坂の3都にまたぐ壮大な計画だった。詳細はこうだ。

 

 まず江戸では丸橋忠弥という浪人がリーダーとなり、各地に火を放って町全体を火の海にし、その混乱に乗じて江戸城内へ侵入。11才で就任したばかりの若い将軍・家綱を奪取し、駿河(静岡県)の久能山で由井正雪と合流する。江戸での計画が成功したら、次は京都でも全く同じように各地へ火をかけて二条城を乗っ取り、更には大坂では諸大名の蔵屋敷から米穀を奪って大坂城に立てこもる。

 

 これが上っ面だけの計画でないことは、鉄砲数百丁の調達の仕方から、江戸城内の老中・旗本の討ち取り方、諸大名の屋敷への火薬の投じ方など、さまざまな計画が綿密にたてられていたことからわかる。

 

 彼らは本気だった。

 しかし、クーデター計画は事前に漏れた。裏切り者の浪人が幕府に密告したのである。

 

 その結果、首謀者の由井正雪は自害で果て、他の者も同様の道を辿るか、磔の刑に処されるなど、哀れな末路を迎えた。

 

 一方で、計画を密告した浪人はその後、幕府の家臣に取り立てられるという立身出世を果たす。

 

 裏切り者たちは、最初からそれを狙ってクーデター一味に参加するフリをしていたのか。あるいは途中から心変わりをしたのか。残念ながら今となっては不明であるが、実はこの乱は、首謀者たちが死んで終了とはならなかった。

 

 あろうことか御三家の一つ紀州藩主の徳川頼宣が「由井正雪と通じていた」という嫌疑がかけられたのである。

 

 御三家とは、将軍を輩出する紀伊藩、水戸藩、尾張藩のことで、徳川家直系の藩である。万が一、その一角の紀伊藩からクーデター計画の陰の首謀者が出てしまったら、それこそ将軍家そのものの屋台骨が揺れることになる。

 

 結果的に、この一件は一切のお咎め無し。ただただ由井正雪が悪者ということで一件落着とあいなった。

 

 この乱を契機に、江戸幕府はそれまでの強権的な武断政治を止め、由井正雪が理想としていた文治政治へ移行した。武力で国を治めるのではなく、法律や学問で国を治める社会体制へ変わったのだ。

 

 由井正雪はクーデター計画を起こす前、大名家や将軍家から仕官の誘いがくるほど優秀な軍学者であり、自らも私塾を開いて、多数の塾生に学問を教えていた。

 

 悲しいことに、彼を本当に必要とする社会は、彼の死をキッカケに訪れたのである。

 

徳川家康の十男にして紀伊藩の藩祖・徳川頼宣にも嫌疑がかけられたが・・・

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