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【防災歳時記】横浜米軍機墜落事故『パパ・ママ・バイバイ』

墜落したファントムの同型機/wikipediaより

 今から36年前、1977年9月27日、厚木基地を飛び立った米軍機ファントムがエンジン火災を起こし、横浜市の住宅街に墜落した。

 

 墜落前に、いち早くパラシュートで脱出したパイロットは、救難ヘリで基地に帰還。事故現場にやってきた米軍関係者は素早くエンジンを回収し、その作業中にはピースサインで記念撮影を行う不謹慎な兵士もいたという。

 

 墜落した飛行機の機体残骸や燃料により周辺の家屋20戸が炎上し、市民6名が負傷、母子3名の命が奪われたにもかかわらず…。

 

 この事件は横浜米軍機墜落事件と呼ばれており、その後、亡くなった母子3名の物語が絵本で発売されている。

 

『パパ ママ バイバイ』草の根出版会; 〔改装版〕版 (1979/03)

 

 死に際して子供が発した最期の言葉が、そのままタイトルになっているのだが、当時3才と1才の男の子が全身やけどを負い、息も絶え絶え、死の直前に父親に残したセリフだった。

 

 幼い子どもたちが亡くなったのは事件の翌28日。このとき母親は、彼女自身も全身8割に及ぶ火傷を負い、近くの病院に緊急入院していた。

 

 一命をとりとめた母親は火傷のために全身薬浴という耐え難い苦しみを味わいながら、周囲からの「子どもたちも治療を受けて頑張っている」という救いのためのウソを励みに治療を続けた。

 

 そして事件から1年4ヶ月後。治療によって回復しつつある母親の前に、幼き子どもたちの遺骨が差し出された。

 

 そのときの彼女の苦しみは、いかばかりか。我々には推し量ることしかできないが、想像するだけでも胸が痛くなるだろう。

 

 彼女は自身が味わった苦痛や治療のため、国に対応を求めるも、その態度があまりに不誠実なために怒りを覚え、抗議の声をあげていく。

 

 ところが、である。本人を待っていたのは精神病患者を収容する病院への不可解な転院であり、そこで彼女は呼吸困難になって亡くなってしまう。

 

 事件から4年4カ月後のこと。あまりにも不可解な展開であった。

 

『パパママバイバイ』草の根出版会(1979/03)で出された後、日本図書センター(2001/02)からも発売された

 私事で申し訳ないが、小学校のクラスメイトの中に、このとき亡くなった子供たちのイトコがいた。

 

 被害者宅から3駅の近所に住んでいたため、パイロットがパラシュートで降り立った場所も、被害者宅の位置も、学校の授業で「パパ ママ バイバイ」を読んだことも、ところどころは朧気で、ところどころは明瞭に記憶している。

 

 その同級生や先生が浮かべていた複雑な表情は、子供心にも深く響き、今でもそのときの授業の光景はスイッチ一つで頭に浮かんでくる。

 

 しかし、このとき娘と孫を失った父であり祖父である土志田勇さんが、2007年に本を出していたのは、今回の原稿を進めている中で初めて知った。

 

『米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ』七つ森書館 (2007/12)

 

「二度とおなじ悲劇を繰り返さないためにも、そして必死で生きようとした和枝のためにも、目を背けず、語り継いでいくことが父親である著者の使命です」

 

 オスプレイや沖縄基地問題が取り上げられるとき、横浜米軍機墜落事件がクローズアップされるケースがあまり見受けられないのはナゼだろうか。

 

 気丈にも「著者の使命」と事件当時を振り返って書き記した、被害者・父(祖父)の決意は無駄にしてはいけない。

 

現在は母子の銅像が港の見える丘公園に建てられている/wikipediaより

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