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防災歳時記9月30日 歪められた人物像 比叡山焼き討ち事件

戦国武将の中でも特に人気の高い織田信長(1534-1582年)

 今から442年前、1571年の今日9月30日、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちした。

 

 天台宗の総本山ながら当時の比叡山は僧兵による軍備を整え、女人禁制であるにもかかわらず、女・子供らも大勢暮らし、彼ら数千人が織田信長によって虐殺されたという。

 

 しかし、この通説には現在異論を唱える向きもある。

 

 比叡山焼き討ちなどと言うと、まるで山全体を焼き尽くしたような印象があるが、発掘調査によると、焼かれた跡が確認できるのは根本中堂や大講堂などの一部のみ。

 

 また、僧侶、女、子供にかかわらず数千人を虐殺したという言い伝えについても、あくまで誇張であり、その証拠となる大量の遺骨なども発掘されていない。

 

 ただ、比叡山延暦寺が浅井家、朝倉家などと手を組んで反織田信長側に回っていたのは間違いなく、それを排除しようとした織田軍が通常の合戦をしただけなのではないか、というのが自然な見方となっている。

 

 では、なぜ現代において織田信長は目的のためならすべてを排除するような冷酷な人物に描かれてしまったのか。

 

 実は、比叡山延暦寺の焼き討ちに限らず、織田信長については伝説的な逸話がまるで事実のように伝わっていることが多い。

 

 電撃的な奇襲作戦と言われた桶狭間の戦い。実際は国境付近の小さな争いが、幸運に幸運が重なり、ほぼ偶然のごとく今川義元の首が取れてしまったと見る方が自然だ。

 

 3000丁の鉄砲で武田騎馬軍団を破った長篠の戦い。三段撃ちで次々に鉄砲を発射したと言われているが、当時の鉄砲は煙の量が多く、続けて撃つことなどできないばかりか、そもそも織田軍は最大で1000丁(別働隊が500丁)しかなかったと織田信長の記録を綴った『信長公記』に残されている。

 

 武田の騎馬軍団にしても怪しいもので、戦国時代の日本馬はポニーサイズしかなく、武将たちは馬を降りて戦うのが常識であり、隊列を組んで戦うようなことはなかった。

 

 他にも、皇位を狙っていたとか、鉄甲船を作ったとか、テレビや漫画でまことしやかに伝えられる逸話は多いが、織田信長についての有名な話は多くが史料的な裏付けの乏しいものばかりである。

 

 それをわかった上で楽しむ分には個人の自由である。

 

 しかし、織田信長ぐらいの有名人になると、その伝説的な逸話が「独創的なアイデアに富んだ人」として、起業家や経営者の教訓として広がったりするから恐ろしい。

 

 織田信長は神社や寺院も保護していたし、相手構わず冷酷に鬼のような所業をする人物でもなかった。むしろ、様々な機微をわきまえた気遣いの人で、有能な政治家であったとする見方もできる。

 

 それでなければクセのある部下たちを東奔西走で働かせることなどできなかったであろうし、庶民の心をつかむことも無理だったはずだ。

 

 税金を減免し、市場を開放したという「楽市楽座」も、実は信長のオリジナルではない。

 

 こういう政策こそ現代にぜひ一考をお願いしたいものであるが…。

 

イエズス会が描いたという信長の肖像画

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