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防災歳時記12月15日 ホロコーストの指導者アイヒマンの死刑判決

アドルフ・アイヒマン(1906年 - 1962年 出典: イスラエル政府)

   北朝鮮でナンバー2と目されていた張成沢(チャンソンテク)前国防委員会副委員長が12日、軍事裁判にかけられ、即日処刑された。


   その背景はまだ定かではないが、北朝鮮が朝鮮中央通信を通じて、張氏を「醜悪な人間のくず」呼ばわりし、腕に縄をかけられた姿まで世界に向けて”発信”したことに驚いた人も多いのではないだろうか。


   そして、今から52年前の今日12月15日、同じように全世界に”公開”されたイスラエルの法廷で、ある「ナチス戦犯」に死刑判決が下された。


   被告の名は、アドルフ・アイヒマン。ゲシュタポの中佐として何百万ものユダヤ人を収容所に送る陣頭指揮をとったとされ、戦後、イスラエル諜報特務庁(モサド)が血眼になって探した男だ。

 

   アイヒマンとはいかなる人物だったのか。ホロコーストの中心人物ならば、ナチスで純粋培養され、さぞ冷酷無比なエリートコースを歩んできたのだろう。


   モサドによってアルゼンチンに逃れていたアイヒマンが捕らえられ、1961年4月に公開裁判が始まった時、世界の多くの人々はそう思ったのではないだろうか。


   しかし、エルサレムの劇場に特設された法廷に現れたのは、いかにも小役人風の平々凡々な男だった。

   アイヒマンは1906年、ドイツ西部のゾーリンゲンで、電機会社の簿記を務めるアドルフ・カール・アイヒマンの長男として生まれた。生家は典型的な中産階級。10歳の時に母を亡くし、父は鉱山や小麦といった事業に手を出しては失敗し、あまり幸福な子供時代だったとは言えない。


   アイヒマンは学業も優れず、カイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を中退。その後、通った工業学校も卒業できず、職に就いても長続きせず、石油会社をリストラされたこともあった。


   ナチ党入党は26歳の時。父の知人の勧めで入ったものの、「軍務訓練の単調さに耐えられず」、すぐさま親衛隊情報部に応募している。


   情報部に入ったアイヒマンはその後、人事異動でユダヤ人担当になり、ウィーン勤務時代は半年で5万人のユダヤ人をオーストリアから追放するなど、次第に「ユダヤ人問題の専門家」と称される存在になっていく。


   だが、こうして振り返ってみると、果たしてアイヒマンは冷酷な大悪人だったのか。一説には、主要なポストを大卒者が占める親衛隊で、アイヒマンは劣等感を募らせ、それが異常なまでの「職務遂行」に繋がったのではないか、とも言われる。


   米誌『ニューヨーカー』の特派員として裁判を取材したユダヤ人政治思想家のハンナ・アーレントは、アイヒマンを「ごく普通の小心者で取るに足らない役人」と指摘。裁判は「ベングリオン(イスラエル初代首相)の演出したショーだ」と批判した。


   この主張は猛バッシングを引き起こしたが、ハンナは「アイヒマンを非難するしないはユダヤ的な歴史や伝統を誇りに思うこととは違う。ユダヤ人である事に自信を持てない人に限って激しくアイヒマンを攻撃するものだ」と反論している。


   世界にホロコーストの残虐な現実を突きつけることになった裁判。死刑判決から約6ヶ月後の1962年6月1日、アイヒマンは絞首刑に処せられた。


   アイヒマンは最後まで、「自分はあくまで命令に従っただけ」と無罪を主張していたという。

 

裁判の様子。アイヒマンの座る被告席は防弾ガラスで覆われた

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