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防災歳時記2月1日 元寇と神風と歴史認識

蒙古襲来絵詞(竹崎季長作)

 最近は、隣国から『歴史認識』について、とかくご注意を受けることも多いが、確かに子どもの頃に学校や本で学んだ歴史の記憶が本当は違う、ってこともままあるようだ。

 

 元寇についても、元の大軍が太宰府に攻め寄せてきて、すわ!決戦と言う時に、神風が吹き、一夜明けたら、元の船はみんな荒波で粉々に、みたいなことだと記憶していたが、そう言う事でもないようだ。

 

 実際に最初の「文永の役(1274年)」には、元により対馬・壱岐は侵攻され、主力は博多湾に上陸、そこからは「陸上戦」になった。

 

 各局地戦の勝敗の評価は、「元の圧勝」だとか「日本側が奮戦した」だの色々あるようだが、激戦だったことは間違いないようで、元軍は、「このままだと兵力を消耗するのみで、海を越えての援軍はすぐに期待できない」と判断。撤退を決断する。

 

 そして、この撤退の最中に「神風」に襲われる悲運に見舞われた。

 

 だから「神風」はまったくもって、「戦さの勝敗」には関係ないのだ。

 そもそも、世界最大の版図を有する大帝国 元の皇帝フビライは、よりによって日本なんて「辺境の地」を攻略しようと思ったのか?

 

 その理由は、日本を「ジパング(黄金の国)」として世界に紹介したマルコポーロの「東方見聞録」に記述がある。

 

「彼らは限りなく金を所有している。この島の君主の宮殿は屋根がすべて純金で覆われ、床も約4センチの金の板が敷きつめられている…」

 

 こう聞かされたフビライは日本攻略を決意する。彼もまた「金の伝説」に取り憑かれた一人だったのか。

 

 そして「文永の役」までに都合6回も使節を送っている。

 

 まずは「通好」を求めるフビライの国書を携えて。そこには「仲良くしよう」と書かれているが、最後に「兵を用いることは誰が好むだろうか。王よ、その点を考慮されよ」と、ちょっぴり脅しも入っている。

 

 だが第1回目の使節は、日本まで訪れず、高麗(現朝鮮半島の国家)で引き返した。

 

 大帝国の元に服従している高麗としては、こんなことで日本との戦争に巻き込まれるのはたまらなかった。

 

 だから「あんな奴ら、野蛮だし、話をする必要ないですよ」と言い募って、おとなしく使節を元に返したのだ。

元の皇帝フビライ・ハーン(Anige作)

 そして、第2回目の使節がようやく日本にやってくる。

 

 それが今から768年前、1268年の今日2月1日だった。

 

 太宰府に上陸した元の使節は、先の国書を携えていた。

 

 国書は鎌倉幕府に、そして幕府から院政を敷く後嵯峨上皇に届けられる。

 

 連日、朝廷ではこの国書にどう対応するかという評定が続けられたが、最終的な結論は、現在の外交的な常識からすると驚くべきものだった。

 

「ノーレス」

 

何も返答しない」というのがその答えだった。こうやってのらりくらり6年間もかわしているうちに、「文永の役(第1回元寇)」が発生する。

 

 この先の話は別の機会に譲るが、なにしろちょっと調べると「歴史認識の誤り」は面白い。

 

 どうせ「歴史の勉強が足りん」と隣国からお叱りを受けている身、これを機会に太平洋戦争前後の歴史だけでなく、古来よりのわが国の成り立ちをもう一度勉強し直してみるというのも一興か。

後嵯峨天皇像(藤原為信作 出典: 天子摂関御影 宮内庁書陵部)

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