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防災歳時記2月11日 建国記念の日とこの国のかたち

考古学者であり歴史学者でもある三笠宮崇仁親王は「神武天皇の即位は神話であり、史実ではない」と主張された

 今日2月11日は「建国記念の日」。

 

「建国をしのび、国を愛する心を養う」とされているが、つまりは紀元節、はるかな太古に神武天皇が即位された日である。

 

 戦後、1950年代ごろから「紀元節復活」の気運が高まり、1966年(昭和41年)に祝日として成立したが、考古学者・歴史学者でもある三笠宮崇仁親王からは、「神武天皇の即位は神話であり、史実ではない」と反論されもした。

 

 「ご先祖様の即位の日」なのに、その末裔から反論されてしまっては身もふたもない。

 

 各国の「建国記念日」を見てみれば、米国は独立記念日、フランスは革命記念日、中国は国慶節(毛沢東主席が天安門で建国宣言をした日)と、実に分かりやすい。

 

 皇族からも「それは神話だ」と言われてしまうような「あやふやな日?」を建国記念日にしている国は日本しかないし、「独立」や「革命」を経験していない国は、そもそもそんな記念日がなかったりする。

 ふと、どうして日本にだけ…、と考えてみた。

 

 例えば「独立」とか「革命」を経験するとは、他国(他民族)やある階層(王族とか)に支配されていた人々が、自分たちの国家として、その権利を獲得したことを意味している。

 

 つまり、革命や独立とは、それまでの国家のあり方に国民が「ノーを突きつけた」ということ。

 

 しかし、日本には幸いにも、それまでの日本に「ノーを突きつけた」られたことがない。(太平洋戦争で他の国からノーは突きつけられたが…)

 

 これは、資本と経営が分離した現代的な企業のように考えると分かりやすい。

 

 フランスは、従業員が資本家(オーナー)も含めて「フランス株式会社」そのものにノーを突きつけた。

 

 しかし日本の場合は、長い歴史の中で、経営者(社長)にノーを突きつけたことはあっても、資本家(オーナー)である天皇家にノーを突きつけたこと、すなわち「日本株式会社」自体にノーを突きつけたことがないのだ。

革命とか独立は、それまでの国家に国民がノーを突きつけること(「球戯場の誓い」ダヴィッド作 1791年)

この会社自体は悪くないけど、今の社長はね…」というかんじで、摂関政治や、武家による幕府や、新政府が出来ては、また滅んでいく。

 

 その時代時代によって、創業一族たる天皇家が前面に出たり、投資家として経営から一線を画すことがあっても、「日本株式会社」は連綿と歴史を紡いでいる。

 

 その理由を突き詰めて考えると、やはりどんなに近代的な装いをしても、この国は、西洋近代の概念でいうところの「国家」とは、ちと違うのかなと思えてくる。

 

 例えば、「極楽浄土」とか「常世の国」と言ったものが、「国家」ではなく「場所」を意味しているように。

 

 「日本」という国家は、そうした類い、つまり「始めに土地ありき」なのかなと。

 

 西洋近代における国家は、「主権在民」、始めに国民ありて国家となるが、日本人の場合は、どんなに格好いい憲法を掲げても、深層心理の中では、「始めに土地(場所)ありて国民あり」、と思っているような。

 

 天皇家は、「創業一族」じゃなくて、「土地の所有者」、いやもっと言えば「土地そのものの象徴」なのだとすれば、長い歴史の中でノーを突きつけられなかったのも得心がいく。

 

 社長や資本家にノーを言う人はいても、土地に文句を言う人はあまりいないだろう。

 

 思い起こせば、マルコポーロの「東方見聞録」の時代から、日本は遥か東の海にあると言われる「伝説の黄金の島 ジパング」。

 

 なんだか言葉の響きが、「極楽浄土」や「常世の国」、「ニライカナイ」といった類いに似ているじゃないか。

日本は伝説の黄金の島ジパング それは国家ではなく場所の名前なのかもしれない(セバスチャン・ミュンスター作)

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