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防災歳時記4月13日 庶民サロンを夢見て…日本初の喫茶「可否茶館」

   スタバにタリーズ、ドトールなど、今ではすっかり街角に馴染んだコーヒー店。買い物にデートに仕事の合間に、ちょっとした休憩に一杯のコーヒーは欠かせない。


   しかし、日本で最初に誕生した「喫茶店」は決して順風満帆ではなかった。


   今から126年前の1888年(明治21年)の今日、4月13日、東京下谷区上野西黒門町二番地(現在の台東区上野1丁目)に開店した「可否茶館」。オーナーは大蔵省官僚だった鄭永慶だ。

   鄭は、近松門左衛門の「国性爺合戦」で有名な鄭成功(中国人を父に、日本人を母に持ち、台湾で明朝の復興を図った英雄)の子孫で、かつ英語、中国語、フランス語もあやつるインテリ。それが喫茶店とは、ずいぶん思い切った起業をしたものだと驚かされる。


   当時はまさに欧化主義全盛期。鹿鳴館が建てられ、士族や華族が洋服をまとって夜な夜なパーティーに興じていた時代。さては鄭も流行を当て込んでの転身か……と勘ぐりたくなるが、さにあらず。

 

   どうも鄭は、紳士淑女を気取る上流階級が鼻持ちならず、可否茶館を”庶民サロン”にしたかったようなのだ。


   可否茶館は喫茶店と言いつつ、2階建て洋館の1階にはトランプ、クリケット、ビリヤード、囲碁、将棋と遊具をそろえ、更衣室やシャワー室まで備えた充実ぶり。新聞、雑誌に和漢洋書も読むことができ、備え付けの硯や筆、便箋で手紙を書くこともできた。


   おそらく鄭の頭にあったのは、10代の頃、留学先のアメリカで目にした庶民の気楽な交流の場としての「コーヒーハウス」だろう。上流階級しか入れない鹿鳴館とは違い、庶民が自由に集って知識も学べる広場……そんな理想を鄭は可否茶館に掲げていたのではないだろうか。

可否茶館跡地の碑。開店から120周年を記念し、2008年に三洋電機ビルの敷地に建立された(可否茶館記念会HPより)

   だが、鄭の理想は残念ながら夢半ばに終わる。可否茶館で提供されたメニューは、コーヒー1杯が1銭5厘、牛乳入りで2銭。当時は盛り蕎麦の値段が8厘で、そばの倍もするコーヒーを気軽に飲めるほど、庶民に余裕はなかったのである。


   結局、可否茶館は開店から4年で幕を閉じる。そして、鄭はアメリカに渡り、まもなく1895年、シアトルでひっそりと37歳の生涯を終えた。


   失意の下にこの世を去っただろう鄭永慶。ただ、彼が踏み出した一歩は20年経ち、銀座に「カフェー」と称する店が相次いで誕生する素地を作った。


   そして、今や日本国内の喫茶店は7万7000店を超える。コーヒーの消費量にいたっては年間約25万6900トン(2012年、全日本コーヒー協会調べ)で、昭和50年半ばには緑茶を上回った。


   鄭が夢見た”コーヒー片手に街角で交流”の光景は、どこにでもあふれているのである。

   

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