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防災歳時記4月27日 鳴かぬなら計算しようホトトギス

 織田信長が進めた天下統一を豊臣秀吉が仕上げ、最後に持っていったのが徳川家康。1600年の関が原の戦いで勝利し、1603年の征夷大将軍就任で江戸幕府を開いた――。

 

 歴史の授業ではかくのごとく習う戦国三英雄の話。表面だけ見れば確かにそれも事実であるが、そこに至るまでの経緯はそう単純でもなく、家康の天下はもしかしたらある武将の死によって初めて成立できたとする見方もある。

 

 ある武将とは、加賀百万石を作った北陸の英雄・前田利家。その死は今から415年前、1599年の今日4月27日だった。

 

 NHK大河ドラマ「利家とまつ」で、夫より人気の出た松嶋菜々子「まつ」の影響なのか。あるいは他の漫画やドラマ・映画作品のせいなのか。前田利家はなぜか過小評価されがちだ。

 

 実際は、大権力者となった豊臣秀吉に意見を言えたのは利家ぐらいだと目されていたし、そもそも織田信長の部下である時代から武勇を褒め称えられ、秀吉に負けないぐらいの大出世を果たしている。

 

 豊臣政権下でも、徳川家康と覇を競う五大老の筆頭であり、他の戦国武将たちからは家康よりも尊敬され、信頼も厚かったという。

 

 このような状況下では、豊臣秀吉の死後も徳川家康が勝手な振る舞いは行えず、一応、世の中の形式上は豊臣政権が続いていく予定であった。

 

 しかし、1599年に利家が亡くなったことは前述の通りで、その翌年に関が原の戦いが勃発、徳川家康が天下を握った。これは偶然の一言では片付けられない歴史のうねりであろう。

 

 そもそも関が原の戦いも、徳川家康が楽勝だったかのように思われがちだが、東北では上杉家が打倒徳川の兵を立ち上げ、それに呼応するカタチで西軍の石田三成も行動を起こしたため、一歩間違えれば家康は挟み撃ちのピンチ。

 

 石田三成に人望がなさすぎて、結果的に西軍は一日で大敗とあいなったが、もしこれが前田利家だったら、立場が逆転していた可能性は決して小さくない。そもそも、利家が生きていたならば、家康も合戦を避けるのに全力を費やしたのではなかろうか。

 

前田利家の肖像画/wikipediaより引用

 そんな利家が、後生大事にしたと言われるのがソロバンである。

 

 お金を数えるための、あのソロバンであり、現存する日本最古のものは前田利家が使っていたものだとされている。

 

 その辺が過小評価される要因の一つなのかもしれない。利家は金の計算に聡く、他の大名へも金を貸しており、それを巧みに政治に利用し、百万石を作ったという意地悪な評価をくだされたりもするのだ。

 

 が、それはあくまで穿った見方であろう。

 

 利家は死に際して「借金は催促せず、返せないようならチャラにしてやれ」という遺言を息子の利長に残している。

 

 戦国三英雄の陰に隠れた四番目の英雄――。もし今後、利家の評価が高まれば、こんな詩が歌われるかもしれない。

 

鳴かぬなら計算しようホトトギス

 

 お粗末さまでした。

 

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