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プロローグ...

東日本大震災が起きてから、日本の歴史が震災という新たな角度で注目されるようになった。

 

M8.0クラスの大震災
富士山の噴火
大飢饉を招いた気候の寒冷化
など

 

かつては「大げさ」の一言で片付けられがちだった古文書の内容が、現実を目の当たりにして笑い事では済まされなくなったからだ。


歴史の記録には、我々の祖先が体験してきた貴重な記憶が詰まっている。

当連載では、それをやさしく紐解くことで、災害の今昔を学んでいきたい。

第十八巻 うどんは香川だけじゃない!群馬の食文化を変えた浅間山

 

 皆さんは、俗に言う「日本三大うどん」というものをご存知だろうか。

 

 1つは、全国でも知名度ダントツの「讃岐うどん」。では、残りの2つは?

 

 大阪だろうか…。はたまた、京都だろうか…。と、西日本で悩まれる方が多いが、実は秋田の「稲庭うどん」と群馬の「水沢うどん」である。

 

 今回、注目すべきは群馬。全国でも有数の小麦の産地であり、水沢うどん以外にも桐生うどんや館林うどんなど、香川に次ぐ密かな「うどん県」となった原因に迫ってみたい。

 

 

 

40年間、ただ煙が出ていただけだったのに…

 上野(こうずけ・群馬)と信濃(しなの・長野)の間では、昔からある活火山の活動が知られている。

 

 浅間山(標高2542m)だ。

『日本書紀』にも登場するほど歴史は古く、そこには『685年に火山灰が信濃に降り、草木がみな枯れてしまった』という最古の活動記録が残されている。

 

 それから約400年後の天仁元年(1108年)に浅間山は再び噴火。今度は山の東側に大量の火山灰を降らせ、群馬一帯に甚大な被害をもたらした。その時の様子が京都の一貴族の日記に残されている(『中右記』)。抜粋してみよう。


『上野国から都に報告があった。それによると、40年ほど前から細々と煙を上げていた浅間山が、1108年7月21日、突如大爆発し、火山灰が国中に降り注いで、田畠は壊滅。これまでに聞いたことがなく、まれにみる奇怪な事件なので、ここに書き残すこととする』

 

 このときの噴火について、注目すべき現象は3つある。

 まず1つめは、浅間山が40年もの長きに渡って、小康状態のまま噴火活動を続けていたことだ。

 最初に煙を出したときは、さすがに地元の人々も警戒したであろう。しかし、それ以降は特に大きく火を噴くこともなく、静かに煙を出すだけの活動を続けていた。その姿を見て、住民たちや地元の役人は、いつしか気が緩んでしまった可能性がある。

 

 2点目は、この日記が書かれた日付である。
 噴火が起きたのは旧暦で7月21日。これに対し、陣座(じんのざ)と呼ばれる朝廷の貴族会議へ、上野の役人が報告したのが9月5日。実に、発生から報告までに1か月半もかかっている。

 

 たとえ人の足で情報を運ぶとしても、2週間あれば中央省庁へ報告はできたはず。噴火の危険性を案じていなかった上野の役人の対応が遅れたのか。あるいは、報告を受けた中央政府が事態を深刻に受け止めなかったのか。

 

 真相は闇の中であるが、いずれにせよ中央へ浅間山の噴火情報が伝達されたとき、貴族の対応は、現代の感覚からすれば少々突飛なものであった。

 

『占い』で対応したのである。

 

 もし、『吉』が出れば問題ナシ。『凶』が出れば元号を変える。改元さえしておけば「不吉な時代」は終わる。当時の政治は、ときに占いで動くことも珍しくなかった。

 

 そしてその結果は……『吉』であり(元号は変わっていない)、結局、朝廷は何もしなかった。

 

 

火山への備えは完全に怠っていたと想像される

降り積もった火山灰はあまりにも多く

 貴族が日記に記した、噴火の日付は7月21日である。前項では原本に従い、コチラも「旧暦」で表記させていただいた。

 が、これを現代の太陽暦にあてはめると9月5日となる。つまり、浅間山が噴火したのは、ちょうど稲の開花時期で、収穫前でもあった。

 

 そう、これが3つめの注目点であり、うどん文化へつながる大きな要因である。

 

 浅間山から出た火山灰は、辺り一帯、たわわに実った稲穂を押し潰すように降り積もり、この年の収穫は壊滅状態となった。人々は食べ物に困窮し、中には飢餓で命を落とした者もいたであろう。


 噴火規模の詳細は、貴族の日記からではなく、最近の発掘調査によって判明してきた。

 まずこの山は、これまで4度の大爆発を起こしていた。縄文時代中期、古墳時代(4世紀前半)、平安時代(1108年)、そして江戸時代(1783年)。

 

 平安時代の噴火では、群馬中央部で10~20センチの火山灰堆積が確認されている。おそらく、当時の火山灰はその3倍の30~60センチ程度はあったと推測されている。

 そして、その範囲も広大だ。浅間山から東へ100キロ離れた邑楽(おうら)町の藤川堰(ふじかわせき)遺跡で、約3センチの堆積が確認されたのだ。


 規模といい、範囲といい、浅間山最大の噴火であることは間違いない。この後、人々はどのように災害と立ち向かったのか。


 高崎市の下小鳥遺跡では、被災後およそ16年以内に再開発が始まり、水田を整備しようとしている。
 しかし、その耕地は火山灰を除去することなく、上層部に土を盛って作られたため、水が溜まりにくく、決して稲作向きの土壌とは言えなかった。

 

 もう一つの注目すべき遺跡が、前橋市にある農業用水路「女堀(おんなぼり)」の開削工事跡だ。
 幅20~30センチ、長さ約13キロ。当時にしてはかなり長大な水路が、1108年の噴火後に開削されるも、途中で工事は中断され、未完成のまま終わっている。

 

 この工事を先導したのは、地元の武士団たちと推測されているが、結局、腕っ節の強い彼らとて、水田再開発は断念せざるを得なかった。
 かつて水田が広がっていた群馬の平地は広範囲にわたって凄まじい量の火山灰で埋め尽くされ、、人の手で元に戻すことは不可能だったのである。
 そして、代わりに選ばれたのが、乾燥した土地に強い小麦というわけで…。

 

 うどんが小麦から作られることは、あらためて説明するまでもないだろう。
 現在も群馬や埼玉などの関東内陸部では、うどん食文化が盛んで、その消費量も多い(一説には両県共にベスト5位に入るとか)。
 和食はよく四季折々の食文化と称されるが、もしかしたら災害折々という見方の方が、ときには正しくなるのかもしれない。

 

 

自分たちで道を切り拓かねばならないのは今も昔も同じかもしれない

著者紹介
文・恵美嘉樹(えみよしき)
作家。歴史研究の最前線の成果を社会に還元する二人組。
著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『最新日本古代史の謎』(学研)など。

好きなうどんは武蔵野うどん。

 

参考文献
北原糸子編『日本災害史』吉川弘文館
峰岸純夫『中世 災害・戦乱の社会史』 吉川弘文館

 

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