今から201年前、1813年の今日3月19日にスコットランドで一人の男の子が生まれた。
その子の名は、デイビッド・リビングストン。
昭和の時代の「偉人伝」には常連の名前だが、19世紀、まだ「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカを探検した探検家にして宣教師・医師。
当時のアフリカ探検で一つの焦点となっていたのは「ナイル川の源流はどこか?」ということだった。
なにせナイル川は長さ6650キロ。ナイル川の源流を探るということは、当時は「命がけの探検」を意味していた。
まず1857年に、リチャード・フランシス・バートンとジョン・ハニング・スピークの2人はナイルの源流としてタンガニーカ湖(タンザニア)を発見する。
しかし、これを源流と主張するバートンと、「いやもっと上流があるはず」とするスピークはさらに探検してヴィクトリア湖を発見する。
この「どっちが源流か?」論争に決着をつけるために行なったのがリビングストンの第3次アフリカ探検だった。(リビングストン自身は、ヴィクトリア湖に流れ込むさらなる源流があると考えていた)
しかし途中で飢餓と体調不良に倒れ、タンガニーカ湖畔で静養していたが、奴隷商人たちの悪だくみなどもあって、英国内ではリビングストンの死亡説が流れる。
このため米紙「ニューヨーク・ヘラルド」はジャーナリストで探検家のヘンリー・スタンリー(これまた昭和の偉人伝では常連だが)をアフリカに派遣する。(スタンリーは途中で他の取材予定も入れ、寄り道したため、タンガニーカ湖畔に着いたのは実に取材発注から2年も経っていたところが19世紀だが…)
「Dr.Livingstone,I presume?(リビングストン博士でいらっしゃいますか?)」
骸骨のようにやせ衰えたリビングストンを見て発したスタンリーの言葉は、昭和の子どもの偉人伝のクライマックス・シーンであり、のちに英国人は思いがけない人とバッタリ会った時に、このセリフを使うようにもなった。(今使ったら、「その手は桑名の焼きハマグリ」ぐらい、どこのじいさんかと思われるが…)
そしてリビングストンは、スタンリーが帰国した方が良いと勧めるのも聞かず、探検を続け、翌年、マラリアによりアフリカ奥地で息を引き取った。
その後、リビングストンの遺志を継いだスタンリーが、最終的にナイル川の源流はヴィクトリア湖ということを確認し、19世紀の「ナイル源流論争」には決着が着く。
しかし、その後、さらにヴィクトリア湖に流れ込む川であるカゲラ川やルヴィロンザ川が発見され源流とされた。
ただし、奥地なこともあるが、源流がある「ブルンジ共和国」が極めて政情不安定なこともあり、「確かなこと」は未だ言えず、なんと2006年になってブラジルとニュージーランドの探検家が、新しい源流を発見している。
しかし当のブルンジ共和国は、ナイルの源流についてカゲラ川の上流にあるルカララ川と言っており、とても「源流が確定した」とは160年経った今も言えない状態だ。
ちなみに、一昨年(2012年)に朝日新聞の記者が、ブルンジが「ナイルの頭」としている源流地点を取材して記事にしている。
その記事によると、一応「観光地」ってことになっているが、観光客はほとんどなく、あの「大ナイルの源流」は、標高2000メートル超の山にある小さな貯水池みたいな所から水がぼこぼこ沸いているといった、かなり「ショボい」場所だったようだ。
19世紀、多くの探検家が、この「真実」を知るために、暗黒の大陸で命を落としていった。